「活動目的」      「西国街道をまもる会」

瀬野川流域の地域活性化に資する自然、遺跡、文化等の保存活動、地域資源の調査研究活動等の成果を地域活性化活動に生かすとともに後世に継承保存する」

2.いにしへの大山の水・空気・山の緑、紅葉等のゆたかな自然を守り、ホタルの飛び交う瀬野川、ウサギ追いしかのやま、オブナ釣りしかの川を取り戻し後世に引き継ごうわが故郷。

 

 


やま、また、やまの安芸区上瀬野町

古代日本の大幹線道路であった東広島市八本松町宗吉から広島市安芸区上瀬野町に抜けるこの山道、古代山陽道時代は13の駅があったと言われその内大山驛には(馬20匹、120人ぐらいの人がいた)、道の最高峰大山峠(337m)は西国一の難所と言われ代官様でも降りて峠を上ったという、代官おろし跡、馬の背に1石五斗の荷物を背負わせ峠を登ったという瀬野馬子唄が歌われ、その後室町時代に入り海陸両用の道が使われた頃は、初代大山鍛冶「宗重」の名刀が生まれた地でもありました、(今は国宝東京国立博物館蔵)江戸時代に入るとこの街道は江戸を中心とする五街道に日本の道路幹線は移ったと言われ、脇街道とは言われたが依然として日本の主要幹線街道でありました.

街道整備は1633年幕府巡見使の地方巡察により一里塚、街道松、本陣、脇本陣が置かれ当地は、四日市(西條)と海田市に本陣が、

その間にあった上瀬野町一貫田には「(あい)宿(しゅく)が置かれ」、広島藩3つの油御用所のうち一つが置かれ、明治の初めまで「孫兵衛炭」と「燈油」を購入する人たちがたくさん来られ、山の中の一大商業地であった。その後警察署、郵便局、芸備銀行が立地し、明治12年には油御用所の跡地を明治政府が買上げ富岡製紙に次ぐ日本第二の「官営紡績工場が立地することになっていた」が残念ながら水不足で操業しないまま移転した。一方明治27年6月には山陽鉄道も糸崎~広島間に瀬野駅を含めて5驛ができ、道路と鉄道の両輪が動くようになり、上瀬野駅の設置に地元が反対したため「駅が」人、物流の中心となり町の中心が下瀬野に移った。

 

また道路国道2号線は、当初東京~長崎間の国道4号線の一部に2号線が含まれていたが大正20年の政令で2号線となったが、古代より続いた道路ではなく古代山陽道とは離れた瀬野川沿いに新しい2号線が敷設されたが依然として西日本の大動脈として活躍している。本日は、西国街道沿いの当地区「上瀬野村が」繁栄していた時代の江戸時代に焦点を当てこの西国街道の歴史を「「紀行文.唄。」などを33句「大山峠12句。一貫田13句」あったので唄から江戸時代の当地を読んでもらいたいと思っています。歌から自然環境豊かな当地の情景、文化、歴史をいにしへのふるさと「瀬野を」眺めてもらいたいと思います。